じかんについておもうこと。
もうそろそろ師走ですね。
忙しいかもしれないけれど、走るのは先生だけにまかせておきたい、そんな気分。
じかんに関して。
時間があるとか時間がないとか、
時間が余るとか時間が足りないとか、
時間は継続的だとか断続的だとか、
時間は直線的だとかそうでないとか、
時間についてのいろいろな概念がある。
時間は物質的に存在していないが、物理法則には時間軸が必要だと思う。
時間は3次元世界と別次元の4次元で、物理空間(3D)とは違うものと考える。
時間はドラえもんの4次元ポケットのように現実的ではないと思う。
時間をつくるということは、いつもの生活の中では、何かのために自分の予定を空けることだと思う。
時間が足りないのは、その予定のなかで、何かをしたり行動したりすることの処理(能力)が間に合わないことだと思う。
時間をせっかく作ったのに(予定を変更された)とか、
時間が足りないので(無理やり間に合わせた)とか、
時間は思い通りにならない。
時間が足りないとかつくれないというのは、時間がないのではなくて、目的のことがやっても完遂しないということなのではと思う。
時間がつくれないのは身の丈にあった行動ができていないためかもしれない。
時間を余計につくるには、個人の成長(どんな成長かは?)が必要だと思う。
時間をつくれないと寝る時間を短くしたりして、時間を無駄に使ってしまう(浪費)。
時間の浪費は、生きている時を浪費する。
時間を使うということは、時間を遣うということかもしれない。
時間を遣う→まわりの予定を考える
時間を使う→自分の予定を考える。
時間の余っている人は、自分の時間を使っている。
時間の足りない人は、まわりの時間に気を遣っていないし、自分の時間を遣えていない。
時間が足りないは、時間を読めないということかもしれない。
時間をよむ能力も必要なのかもしれない。字間や行間を読む能力と同じように。
時間をつくるの“つくる”について考えてみた。
時間を作る・・・・時間は物質的でないので作れない。
時間を造る・・・・時間は構造的でないので造れない。
時間を創る・・・・なんだか創れそうな気がする。
時間は想像(創造)上のものだと割り切って、現実でないもとしてしまうと、“不足”とか“無い”とかの概念に圧迫されることもなく、すっきりする気がする。